ひふみんアイ

最近将棋ファン以外の方にも人気な棋士加藤一二三九段、通称ひふみんだ。その加藤先生には「ひふみんアイ」と呼ばれる行動がある。プロ棋士は頭の中に将棋盤が入っている。だからこそアマチュアにはできないような深い読みが可能なので、対戦中にその盤を頭の中で反対にすれば相手の側から見た局面が見える。しかし加藤先生は対局中に相手が離席すると、実際に相手の側に立ち盤面を見つめる事がある。その行動が「ひふみんアイ」なのだ。「ひふみんアイ」で相手の側に立つ事で思いもよらなかった風景が見え、妙手の発見につながると言う。(もっとも加藤先生曰く、妙手巧手が見つかるのは100局に1局くらいらしい)

 私も相手の側に立つ事で思いもよらない風景が見えるという経験をついこの間、した。

友人との小旅行の道中の事だった。最近読んだ本の話になって、私はエディージョーンズの本について話した。エディージョーンズはその本の中で、指導者に最も必要な資質として観察力をあげていた。部下の表情、行動、服装から心理状態を把握して部下に対してどのようにアプローチしていくか考えなくてはならないというのだ。常々、観察力を磨く事を意識していた私からしてみれば「我が意を得たり」という思いだった。エディージョーンズが選手をよく観察している事を、私としては素晴らしいエピソードとして話したのだが、友人の反応は私にとっては意外なものでただ一言「怖っ。」と言ったのだった。

 なぜそう思うのかを問いただしてみると、一々上司から監視されているなんて嫌だと言う。見る側に立つだけで見られる側に立っていなかった私を思わず見られる側に立たせた「ひふみんアイ」体験だった。

運を育てる

私がロールモデルにしている人物の一人、米長邦雄先生は運の研究をしていた。運、というと神頼みとか守株みたいに怠けていてもいい事があるといったイメージを持つが少なくとも米長先生の考えていた運とは違うものだと思う。

 私なりに米長先生の言う「運」を解釈してみると、

「運」とは

 ①不運が来た時は腐らずじっと耐えながら実力を高める

 ②チャンスが来る前にその予兆を感じ取る

 ③チャンスが来たら自分の実力を十分に発揮出来る

 ④失敗してもそこから何かを学び、次のチャンスにそなえる

以上の4つの事が出来る習慣と考え方である。端的に言えば行動の伴った楽観主義という事ではないだろうか。

 

 米長先生は運のいい若手棋士(成績のいい若手棋士)の両親を全て訪ねたそうだが共通点は、妻が夫を尊敬し夫婦仲が良好である事だったそうだ。そういう夫婦の間には暖かい空気があふれ

その空気の中で育った子供が運のいい棋士になるという。子を育てるのはその子の運を育てるという事に他ならない。

扇子の言葉

 将棋を始めて一年がたつ。始めた頃は盤に駒を並べ動かしながら10分かけても解けなかった5手詰が、今では頭の中だけで5分もかからず解ける。

 将棋を覚えてからその楽しさにとりつかれ、以来将棋に触れない日はないが、かと言って毎日空いている時間の全てを将棋に使っているわけではない。平日はほとんど時間を取れないので、詰将棋を幾つか解くだけの事がほとんどだ。休日には棋書を読みながら駒を並べてみたり、棋譜並べやネット対局をしたりする。劇的な特訓を積んだわけではない。ただ、少しずつににせよ毎日将棋に触れただけだった。

 将棋に触れるまで、努力は劇的なものだと思い込んでいた。正確に言えば、成長につながる努力は劇的なものでなければ、その名に値しないと思い込んでいた。

 そういった側面も確かにあると思う。だが、人間を形成するのは一瞬の劇的な体験よりも、日々の積み重ねではないだろうか。付け加えて言えばどんな事に対しても、いきなり劇的な努力ができる人間などいないのではないだろうか。海に潜る時、いきなり深くに潜る事をせず、浅い水深で少しずつ体を慣らしてから深く潜っていくように、日々の少しずつの努力が体を劇的な努力に対して慣らしていくのだと思う。

 

 今、羽生善治先生が揮毫した扇子が手元にある。その扇子に書かれた言葉は今の僕には人生の、努力の深い味わいを感じさせてくれる。

 

「少しずつ前に進む」

この出会いが世界を変える

 最近日曜日の夕方ともなると、早く明日にならないかなぁ、と考えている自分がいる。そんな自分に気がつくと、数年前の自分とはえらい違いだと苦笑してしまう。

 今、社会人になってから3つ目の職場にいる。一つ目の職場は新卒で入社した職場だったが、そこから内定が出た時に真っ先に思った事を今でも覚えている。

 

 「うわぁ、働きたくねぇ。」

 

 そんな心構えの上に、その会社はスーパーブラック企業であったので、私の心はすぐに折れてしまい、8月には退社した。次の会社でも私の心構えは改まらず、一年勤めたのちに退社した。(しかも弁護士を通すトラブルを起こして。)

 

 こうして今の会社に入る事になったのだが、それでも私の心構えは改まらなかった。そのためいい加減な仕事が目立ち周りの人に大変迷惑をかけた。(馘にならなかったのが不思議なくらいだ。)

 そんな自分が今では、月曜日が来るのを楽しみに感じるようにまでなったのは、ある人に出会ったからだった。

 

 その人に仕事の仕組み、人生の仕組み、人間の仕組み、世界の仕組みを教えてもらったことがきっかけで世界に対する考えが変わり、人間に対する考えが変わり、人生に対する考えが変わり、仕事に対する考えが変わった。今ではその人を先生と呼んでいる。

 結果、劇的にではないが少しづつ仕事に対する取り組みが変わり、仕事が面白いものになった。

 

 私が変われたのは、先生のおかげなのは間違いないが、もう一つ理由があった。

自分で言うのもなんだがそれは、自分を変えたいという意思はずっと持っていたことだ。

 仕事が嫌で働きたくないと思う一方、仕事に打ち込めて仕事が好きだと言えたらどんなにいいだろうか、そんな風になりたいと考えている自分もいた。そのギャップに常に苦しんでいた。しかし、それは何とかなりたいという気持ちがあったからこそだったのだと今では思えている。

 

 先生との出会いが僕の世界を変えたが、それはこちらに求める気持ちがあったからなのだろう。

「結んで開いて」ならぬ「開いて結んで」

 最近、質問主体の会話を心がけているが質問ばかりすると会話というより尋問になってしまい、(特に初対面の)相手との会話が盛り上がらない事が多くなっている。尋問になってしまった時相手の様子を見ると、不安そうにこちらとの距離をとりたがっているように見える。質問主体の会話を心がけた理由の一つは、初対面の人間とも距離を縮めやすくできるようにしたいからだったがこれでは逆効果になってしまう。

 この事をコーチングをやっている知人に話したら質問の仕方について一つアドバイスをもらった。その知人がいうには質問には『閉じた質問』と『開いた質問』があるという。(正確な呼び方は違う上に、ほかの種類の質問もあったかと思うが忘れた。)

 この二つの質問の特徴は、『閉じた質問』は相手の答えを「はい」か「いいえ」に限定してしまいそれ故に会話が広がり難く、一方で『開いた質問』は相手の答えを限定せず会話が広がりやすいという。

 早速仕事で試してみたが、これが思った以上に会話を弾ませる効果があり、普段あまり会話しないお客さん先の受付の方とも話が弾んだ。

 例を一つ出してみよう。先日、お客さんの一人にお孫さんの学校の音楽会を見に行くと話してくれた方がいたので、他の子供の祖父母も来ているか聞いてみた。今までの自分だったら「他の子のおじいちゃん、おばあちゃんも来ているんですか?」と聞いていたと思う。(これは『閉じた質問』である。「来ている」か「来ていないか」。つまり「はい」か「いいえ」でしか答えられない。)しかしこの時はそうは聞かなかった。「他の子のおじいちゃん、おばあちゃんはどのくらい来ているんですか?」と聞いてみた。すると相手の方は「結構来てるよ。最近の音楽会は・・・。」とこちらが聞いていない音楽会の様子も話してくれた。

 その他にもこの同じ日に『開いた質問』を何度かしてみたが、それができた時は例外なく相手の方はこちらがした質問以上の答えを返してくれた。『開いた質問』ができず、『閉じた質問』をしてしまった時の相手の反応とは歴然の差がある。

 「コミュニケーションは童謡とは違い結んでから開くのではなく、開いてから結ぶものなんだなぁ」と感じたし、質問の仕方一つでコミュニケーションの質が大分変わるのに驚いた。

 言葉は大切にしていきたい。

ブログの目的と今までの記事

この度、改めてブログを書くことにして、今までの記事を削除しました。

記事の内容に問題があったわけではないのですが、これからこのブログは日々勉強したことや感じたこと考えたことをアウトプットするために使うので、その趣旨に合わないと思い削除して新しく出発したいと思います。

うるさい独り言ですが、お付き合いください。